吉田
今日の対話のテーマは「無分別(むふんべつ)」という言葉です。仏教用語なので少しわかりにくいかもしれませんが、「分別しない」ということです。「無分別」と書いて、「ふんべつがない」と読むのとはまた別の言葉で、禅や仏教、東洋思想を学んでいくとよく出てくる言葉です。
分けないということが今の時代にどういう意味があるのか、仕事していく上でどうなのか、そのあたりについて皆さんの意見を聞きながら話していきたいと思います。
まずはこの「無分別」という言葉から、どんなイメージや思いつきでも構いませんので、成澤さんいかがでしょうか?
成澤
「無分別」という言葉に出会ったとき、最初は悪い意味だと思ったんですよ。分別がないということですから、考えが足りないとか、未熟である、みたいなニュアンスの言葉だと思っていました。
あるお坊さんから無分別について解説されたときに、元々仏教用語なんだということを初めて知ったくらいで。でも中身をよく聞くと、すごく腹落ちするというか、確かにそうだなというのが自分の中にあって、それがきっかけでこの場でも無分別を話のテーマにしてみたらどうかなと思ったんです。元々は悪い意味として捉えていましたが、今は、これはとても大事なことだと思っています。
安田
僕も皆さんのおっしゃる通りで、「分別」というと、ゴミの分別をちゃんとしなさい、あなたは分別がないんじゃないのか、といったニュアンスで使われることが周りで多い言葉です。
よかったら、仏教用語としての無分別という言葉の基本的な教えを確認させていただけたらと思うんですが、吉田さんいかがでしょうか?
吉田
きっちり説明できるかどうかわかりませんが、「分けない」ということの重要性なんですよね。分けることはとても大事なんだけれども、白か黒かというレッテルを貼ってしまうと、それにとらわれてしまって逆にうまくいかなくなってきたり、誤解や問題が生じてしまうことがある。
今の時代は分別することがとても重要だと小さい頃から教えられてきていて、世の中自体も分けて分別していくことで成り立っている部分は確かにある。ただ、白黒きっちりつけること以外にも、実際はAもいいけどBもいいよねということが生きていく中にはあると思うんですよ。それを受け入れられないと争いになったり悩みになったりする。
そこに実は重要な要素があって、分別しないということの価値が、今の時代は、特に世の中が混迷している中で、見えてくるんじゃないかなと思っています。
分けないことで物事の見え方がちょっと変わってくるというのをよく感じるので、仏教の教えというのは本当になるほどなと、最近特に思いますね。
成澤
今の吉田さんのお話の通りだと思うんですが、そこに触れたとき、吉田さんがよく使われる絵を思い出したんですよ。山を大人と子供が見ているという絵です。子供は山をありのままに見ているけれども、大人は山の方向に向かって山を見ているようでいて、頭の中は別のことを考えていて、実は山そのものを見ていない、というものです。
(無分別ということは)物事をありのままに見るということでもあるんだろうなと思っていて。判断やいろんな概念が経験則とともにワッと湧いてきてしまって、目の前のことにジャッジが入ってしまう、物事をありのままに捉えられずにいるというのはよくあることだと思っています。
実は、私たちは物事をそのまま捉えられていないからこそ、無分別な状態に向かうことが、より良い方向に進むんじゃないかと思っています。大事なことだとは思いながら、なかなかその境地には至れていませんが。
吉田
無分別の考え方を日常生活に生かすとなると、Aじゃなきゃいけない、Bじゃなきゃいけないとあったとしても、要素の中にはB的なものもあったり、Bと言いながらもA的な要素があったりと、物事にはある意味で曖昧な部分があります。
曖昧というと語弊があるかもしれませんが、両方を受け入れながら物事を見ていくことが大事だという視点で見ると、AかBか判断する前に一旦それを受け取って見ることで、見え方が変わってくる場面が結構あるんじゃないかと思っています。
それを受け入れないで、Aしかないと他のものを拒否してしまうと、議論も進まなくなってしまう。そうじゃなくて、いったん受け入れてみるというこのスタンスから知恵が出てきたり、相互理解が深まったりということがあるような気がするんです。この辺、現実的に見ると安田さんあたりから「とはいえ」という世界がありそうなんですが、いかがでしょうか。
安田
「とはいえ」というところで言うと、まだ僕の理解が至っていないところがあるからだと思うんですが、やっぱり今日も右足から進むのか左足から先に出るのかみたいなことから、お昼に何を食べるかみたいなことも、経営問題でも自分のキャリアの問題でも、右に行こうか左に行こうか、どっちに進むかという決定的な選択をしなければならない場面が日々あると思うんですね。
そういう日常に引き寄せて、無分別という言葉の学びを生かすには、どんな捉え方があるのかというところをもう少しお話し伺えたらと思います。
吉田
僕もよくメタファーとして般若心経の「色即是空、空即是色」を使うんですが、「色」というのは形があるもので、「即是空」でイコール実態はないということを言っているわけですよね。「色」は形があるように見えても、いろんな関係性によって成り立っているから決まったものはないよということで、たとえば水だって冷えれば氷になるし、温めれば蒸気になるし、実態があるようでないよ、ということです。
でも「空即是色」とまた戻ってきて、形がないといっても実際目の前にあるじゃないか、ということをこの言葉は解いているわけですが、そのときに重要なのは、「空」の視点に立って物を見ていくことなんですね。実際には目の前でAかBかを決めなきゃいけない、どっちに進むか決めなきゃいけない部分はある。でも、その「空」の視点に立って物を見ると、捉え方が変わってくる。
一旦「空」の視点、つまりAでもBでもない、形がない、実態がないという視点に立つことが、物を見る上でかなり違いをもたらすんじゃないかと思っています。目に見えている世界でこれがいい、あれが悪いと戦いすぎてしまうと混迷してしまうけれど、それをいったん手放して空の視点に立つと、景色がよりよく見えてくることもある。俯瞰した上で降りてきて、その中でAなのかBなのかを選択していく。分別する前にいったん視座を高く持って俯瞰してみる、あるいは全部受け入れてみて物事をもう一度見てみる、というスタンスで無分別という言葉を捉えると、どちらかというと全部いったん受け入れてみて、それから明確にしていこうよ、という発想で見ていくといいんではないかなということなんです。
それでも「とはいえ」の世界はあるかもしれませんが、安田さんいかがでしょうか。
安田
そうですね。それでも、いったん少し離れたところから俯瞰してみて、AかBか決めて進むとしても、やっぱりなかなかそう割り切れない人間としては、進みだしてから「やっぱりBだったかな」とか、後悔だとか、「もしBに行っていたらどうだったんだろう」とか。特に自分の仕事上のキャリアとか、この先のことを考えると、先への不安もあるし、これまでの後悔というものもつきない気もするんですが、そんなところはどうやって達観していったらいいのかなと思うんですが、いかがでしょうか?
成澤
確かにありますよね。俯瞰するにしても、ある種の分別があって、どっちにしようかという判断をしなければならないシーンはたくさんある。
参考になるかどうかわかりませんが、僕がいつもそういうときに大事にしているのは、「感じることを先にする」ということです。理屈で判断しないというか、要は自分がどっちをやった方がいいと感じるか。大体はやりたいかやりたくないかという話になってくるんですが、自分の心が沸き立たなければ、2択だとしても両方やらないという選択肢も実はあったりします。Bの方が今日はやってみたいとか、面白そうだと思う方に寄せていくと、あまり後悔にはならないという感じがしていて。
やりたいという気持ちでやっているので、失敗しても、学びになるというか、それで済ませられることもある。好奇心から動いている感覚があるので、遊びのニュアンスが入るんですよね。そういうやりたいかやりたくないかで動くので、失敗しても舌を出してここからどうしようかと考えられる感じがある。あくまで私だけのやり方かも知れませんが。
吉田
今の成澤さんのお話はよくわかる気がします。何か「楽に生きる」ことができるというか、そんな気がするんです。楽に生きるための知恵というか、考え方、捉え方なのかもしれないなと聞きながら思いました。
結局、選択肢を間違えたなと思っても、後になってみるとその選択によって得たことは必ずある、というのを人生を振り返ると現実問題としてよくあります。全部繋がっているストーリーになっているような気がするんですよ。一つだけに固執してしまうと、それが決定的になってしまって後悔の人生になってしまうかもしれないけれど、事実は変わらなくても捉え方が変わってくると、舌を出してまた次に進むという気楽な生き方が意外にできる。
人生が楽になっていくということは、仏教がそういう捉え方を基本的に教えているような気もするんですよね。仏陀が言っているのは、人生は思い通りにならないのが大前提であって、そのうえでいかにより豊かに楽に生きるかという知恵だよ、ということだと思うんですが、思い通りにならないことがあったとき、それだけじゃなくてこちらの選択肢でもいいし、こちらでもいい、という受け止め方のキャパが広がってくるといい。失敗したと思っても次があるかもしれないという、もっと広く俯瞰して見ると、そういう受け止め方で捉え方が変わってくるんではないかと感じています。いかがでしょう?
成澤
今の話と関連するかわかりませんが、ふと思ったのが、仮に失敗みたいなことがあったとしても、そもそも失敗という分別をしているじゃないですか。それを無分別という視点で見ると、それって成澤が「失敗だ」と思っている、成澤基準の失敗であって、そもそも失敗なのかという話になる。
無分別の視点に立つと、ただの出来事でしかないですよね。そこから自分の期待値と違った結果であれば、どうするかを考える。ただそれだけでいいんじゃないかなというのが今ひらめいてきたことで、それを失敗と置いてしまうから失敗になるんであって、無分別の視点では「こうなってしまった、より良くするにはどうしよう」というシンプルな思考だけでいいんじゃないかなと今思いました。これが分別かどうかわかりませんが。
安田
なかなかグズグズしている自分としては、そういう境地になれないのかなという気もしなくもないんですが、少し論点を変えさせていただくと、無分別が話題になるのは、おそらく私たちのこれまでの日常生活、社会やビジネスにおいて、西洋的な二元論というのが前提にあった生活をしてきていて、そのデメリットというか限界のようなものから、東洋思想的な一元論への回帰のようなことを吉田さんがおっしゃっているのかなという気がするんですが、そのような文脈からのお話としてはいかがでしょうか?
吉田
おっしゃる通りで、私もそういう文脈から無分別という言葉を学んでいるし、伝えたいと感じています。二元論でいくとAかBかで争いになってしまうわけで、白黒つけていって最終的に決着がつかないと戦争のようになってしまう。でも分けないでいくと、曖昧なようなんだけれど、日本人の独特の考え方かもしれませんが、「調和」、それもあるしこれもあるという調和する考え方の方が、物事はうまくいくんじゃないかなと思います。
分けすぎることによっていろんな争いが出てきたり、利害が表面に出てきたり、あるいは分けることで苦しむという部分がある。「調和していく」というイメージで「分けない」ということを捉えてみてもいいかもしれないなと思います。
安田
最近「エコーチェンバー」という言葉を聞いた気がしていて。同じ意見を持った狭い場の中で話をする中で、一様な意見が強化され、場の外との対立がどんどん深まってしまうということがある。地政学的にも今いろいろ起きていると思うんですが、組織の中でも起きがちな感じがしなくもない。そんなところで、私たちはどういうふうに関わっていったらいいのかなと思うんですが、何かヒントをいただけますか?
成澤
ヒントを出せるわけではないんですが、今いただいた問いで思うのは、社会人の人というのは基本的に仕事を通じて何かを良くしようとしているじゃないですか。大きく言えば社会貢献ですし、お客様や同僚のためになることをしているということ。より良くしていくということをやっているという視点で俯瞰すると、ライバル企業であれ、競合する部署であれ、目指している大きな先は一緒だなと思うんですよね。
だから、ライバルとか敵ではなくて、実は同じゴールを目指している仲間なんじゃないかという見方をすると、相手と向き合ったときの感覚がそもそも違ってくる。僕が組織づくりを支援させていただいているとき思うのは、いかにみなさんがお互いを仲間として協力し合えるような仕組みや、その関係性を生むきっかけを仕組みの中に組み込んでいくかということを日々考えながらやっています。
目の前の人に対して、もしくは外にいる人に対して、どういう意味付けをするかによってだいぶ変わってくる。「仲間にしてしまえば」そこに対立がなくなるので、ある意味で分別がなくなる感じでもあるのかなと。そういうエッセンスを密かに込めていろいろやっていますね。
以前、研修の場で受講者から反発を受けたことがあって。人事の立場で研修担当になっていたとき、「人事が言っていることと、研修で提供しているプログラムの内容がちょっと違うじゃないですか」という指摘でした。その場では「後でゆっくりお話聞きます」と収めて、後で改めて話を聞いたら、シンプルに言えばその人は「もっと会社を良くしたい」と思っていたんですよね。私も同じで、会社を良くするためにこのプログラムをやっているし、人事としていろいろ動いていますよ、という話をしたら「じゃあ一緒に頑張っていきましょう」という感じで終わったんです。さっきまで表面上は対立していたのに。
悪さしようとして生きている人なんてほとんどいない、1割もいないと思っていて、みんな自分なりによりよくしようとか幸せになろうとして生きているだけで、程度や手段が異なるだけなんだろうなと。大きく見ると仲間だなと思っていると、違う意見もあまり気にならなくなってくる感覚がありますね。
吉田
コーチングをやっていると関連することがあって、西洋的な考え方だとAかBかという二元論になりがちで、ディベートのように論破して自分が正しく相手は正しくないという前提でやるというのはトレーニングとしてはいいかもしれませんが、やりすぎてしまうとあまりうまくいかない。
どちらかというと傾聴するということ、相手の言っていることを受け入れながらコミュニケーションしていくと、お互いが一つになっていく。分けない中でお互いのテーマについて話し合うというのが、組織の中でうまくいくためには良い組織につながったり、お互いへの理解が深まるんじゃないかと思います。こういうことも、無分別という考え方の知恵の一つがそこにあるんではないかと思いますよね。
安田
お二人の話を聞いて少し気が楽になった感があるのは何でしょうね。
組織の中で、あるいは自分の中で「どっちが正しいんだ」という葛藤が起きているとき、右からいっても左からいっても、自分として行きたいところはここなんだよなというイメージが持てると、少し安心してどちらを選んでも進める感じがするのかなというような感じが、今ちょっとしました。
成澤
最近思うのは、物事には意味がないんじゃないかということで。発生している物事自体に意味はなくて、意味を付与している自分がいるんだなと。
時代背景が変わり、求められることが変われば、良しとされることも変わる。ということは、出来事そのものには意味はないということだと思うんですよね。それはすべてのことにおいて言えるんだろうなと思っていて。
だから何か物事が起きてそれに対して判断しようとしたとき、常に反対の意味合いはないかなということを考えるようにしています。「これは悪いことのように報道されているけれど、ポジティブな面があるとしたら何だろう」と考えると、意外と見つかったりする。
そうすると、目の前の物事の善し悪しを一面的に判断しない感じが出てくる。ある意味でどちらも受け入れられるというか、バッファが自分の中にできる感じがある。そこに優しさというか理解というか、そんなものが生まれる感じもあって、人を糾弾したり責めたりするよりも理解しようとするスタンスが自分の中で生まれる感覚がある。
そうであっても何らかの判断をしなければならないので、「今求められている基準は何なのか」というところに立ち返って、この基準に照らし合わせると今回のケースはどう判断するかというジャッジをする、そんな感覚が最近は強いかもしれません。
吉田
今のお話を聞いて、バッファができるというか、そういう視点になるというのが一つの知恵なのかなと思いました。決めることは決めなきゃいけないんだけれども、もっと楽に物事を見て決めていくという、分けないことによる知恵、分けないことによる効果がそこにあるとすると、そういう形になればいいんじゃないかなという感じを受けました。
ということで最後に、安田さんいかがでしょうか?
安田
やっぱり、それが相手であっても自分自身であっても、もう少し優しく、耳を傾けてみることかなという感じが、今改めてしています。
吉田
成澤さんいかがですか?
成澤
ここまで話してきて、しゃべりながら自分の中で整理している感じもあって、やはり無分別はすごく大事だなということを改めて思っています。無分別だからこそ取れるスタンスもありますし、楽になるという話もあったと思うんですが、あまり考えすぎても良くないなという感覚も湧いてきます。
裏表があるどころか、多分物事は多面的だと思うんです。だから深く考えすぎずに、気楽にやりたいなと思うことを選んでいたらいいのにな、というのを改めて思います。改めてそう思ったよということで締めたいと思います。
吉田
やっぱり楽になるための一つの考え方として、いいんじゃないかと思いました。今日は一旦ここで終了いたします。ありがとうございました。
法政大学キャリアデザイン学部教授
日本キャリアデザイン学会前会長
臨床心理士
公認心理士
シニア産業カウンセラー
2級コンサルティング技能士
福武書店(現ベネッセコーポレーション)に18年勤務、育児冊子ひよこクラブ創刊などに携わった後、人事部にてヘルスケア部門の立ち上げ、採用、教育、異動、昇格などを担当。
退職後大正大学臨床心理学科教授を経て2018年より現職。
海上保安庁、警察庁、警察大学校等官公庁の他民間企業でカウンセラー、講師、メンタルヘルスの組織コンサルタントとして活動。研修支援領域はストレスマネジメント、メンタルヘルス、モチベーションマネジメント、キャリアデザイン等。
株式会社Zentre 代表取締役 エグゼクティブコーチ
(社)インターナショナルZENカルチュラルセンター理事
ZENトレプレナー研究所 代表
BCS認定プロフェッショナルビジネスコーチ
30歳まで米国アラスカ州にあるパルプ会社に勤務。セスナ機でアラスカ中を飛び回る。
帰国後、中堅アパレル企業の経営の傍ら、カリフォルニア州で日本食レストランの経営や
イランへの文具輸出など、様々な事業を手掛ける。
50歳でビジネスコーチ株式会社を創業し、取締役に就任し人材育成を始める。
2011年青森県観音寺で得度(仏門に入る)
2017年(社)インターナショナルZENカルチュラルセンター設立理事
2020年ZENトレプレナー研究所設立し、代表となる
2023年に70歳で株式会社Zentreを設立し、代表取締役となる
ZEN(禅、然、善、全)をキーワードにエグゼクティブや企業に対してコーチングや人材開発を行っている。
ワークショップ企画ファシリテーター
アウトドア(自然体験)プロデューサー
シンガー&ソングライター
武蔵野大学非常勤講師(2024〜)
Be-Nature School/有限会社ビーネイチャー代表
早稲田大学社会科学部卒
環境教育プログラムや自然を活用した企業研修・組織開発ワークショップを企画・実施。焚火&禅リトリート、屋久島マインドフルリトリートなど、自然×ファシリテーションという独自のボジションで事業を展開。
NPO法人NATURAL LING TRUST・理事
学校法人正和学園・評議員
【著書・絵本】『田んぼのきもち』(ポプラ社)
【編著】『おとなの自然塾』(岩波書店)
【共著】『ファシリテーション〜実践から学ぶスキルとこころ』(岩波書店)、『看護のためのファシリテーション』(医学書院)
Zentreディレクター/青山学院大学文学部卒業
産業カウンセラー
国内旅行業務取扱管理者
教育サービス企業で帰国子女教育に10年かかわった後、組織再編に際し新会社でセミナー企画、セミナーハウスやコンファレンスセンター運営に携わる。2005年に研修の企画、運営、ビジネスイベントのロジスティック手配を手がける有限会社櫂の設立に参加。各種研修プログラムの企画開発、イベント手配、催行の経験を積む。Zentreではプログラム企画開発、カスタマーリレーションを担当。自然と触れ合いつつ対話や内省を深めるオフサイトミーティング、リトリートプログラムの造詣が深い。ビジネスパーソンがよりいきいきと働き、仕事を通じて幸せになることの支援をするのが信条。一般社団法人産業カウンセラー協会東京支部専門育成研修部副部長、有限会社櫂副代表。
Zentre パートナー/中央大学文学部史学科卒
株式会社ToMoRu 代表取締役
HRD(人材開発)プロデューサー
レジリエンストレーニング認定講師
米国CTI認定コーアクティブ・コーチ(CPCC)
富士通系SI企業、人材紹介会社、生命保険会社にて、法人営業や代理店営業、ダイレクトマーケティング、キャリアカウンセラー、人事を経て株式会社ToMoRuを創業。子どもが「早く大人になりたい」と思えるような社会にするべく、社員が育つ組織づくりを目指して社外人事として企業に伴走。コーチングや対話のスキル・知識を活かして、人が育つ人事制度構築・運用や研修企画・実施の実績が豊富。
坐禅は毎朝の日課。禅的な考え方を研修やコーチングに活かすだけでなく、日々のランニングやマインドセットに応用するなど、日々、禅を実践・探求している。